私たち市民連合は、2014年7月の解釈改憲と2015年9月の安保法制によって集団的自衛権行使の容認が強行されてしまったことに反対する「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」「安全保障関連法に反対する学者の会」「安保関連法に反対するママの会」「立憲デモクラシーの会」「SEALDs」の5つの団体の有志の呼びかけによって、安保法制の廃止、立憲主義の回復、そして個人の尊厳を擁護する政治の実現の3点を求めて、2015年12月に発足しました。
私たちのなかには、自衛隊違憲論者も改憲論者もいますが、立憲主義をないがしろにした安全保障政策はかえって日本を危険にさらすと考え、違憲立法である安保法制を廃止し、自衛隊や日米同盟に日本国憲法のタガをはめ直すことを共通の目標に、立憲野党と市民の共闘を通じて、暴走する自公維などの改憲・壊憲勢力を食い止め、政権交代を実現することをめざしています。
今般、ウクライナ戦争を奇貨とし、さらに「台湾有事」を煽り、民心の不安に乗じて、いよいよ立憲民主主義による統制を完全に反故にする軍事強化を進めようと、岸田政権が昨年12月に安保3文書を改定し、敵機基地攻撃能力の保有などのために防衛費の大幅増額に乗り出したことを受けて、市民連合では、全国意見交換会や拡大運営委員会での議論を経て、現況における安全保障についての基本的な考え方をまとめました。今後、これを広く市民社会に共有し、立憲野党の選挙協力の共通基盤となるよう働きかけ、さらにはより具体的なオルタナティブとなる安全保障政策の構築に向けて、いっそう議論を深めていきたいと考えます。
現況における安全保障政策についての市民連合の基本的な考え方
戦後日本の安全保障政策は、日本国憲法と日米安全保障条約の緊張関係、そしてそのはざまに存在する自衛隊という3つの要素の相互関係によって規定されてきた。日本の自衛権(自衛隊)については、憲法13条の定める国民の生命、自由および幸福追求の権利を守るために、憲法9条の許す範囲に限って行使できるものとして憲法の統制を受け、個別的自衛権に限って認められていた(1972年政府見解)。他方、日米安保条約にともなう米軍基地負担は、返還後も沖縄に集中させられてきた。
憲法と日米同盟のバランスが決定的に崩れ、自衛隊の位置付けが根本的に変質したのが、2014年の解釈改憲と2015年の安保法制による自公政権の集団的自衛権の行使容認である。これにより、自衛隊はもはや憲法の実質的な統制を受けず、米軍との切れ目のない一体化が進められ、日本国民の生命、自由および幸福追求権ではなく、日米安保条約の条約地域である日本に限定されない「存立危機事態」に際して、日米同盟を守るために米軍と共同軍事行動をとる組織へと改編されつつある。
岸田内閣が安保3文書の改定を経て進める今般の「防衛力の抜本的強化」が、安保政策の歴史的大転換と言われながらも、まだ世論の強い反応を引き起こしていないように見える理由のひとつは、実質的な政策の大転換が2015年になされており、すでに憲法と日米同盟のバランスが完全に崩れているにもかかわらず、総理が「専守防衛の方針には何ら変わりはない」との虚偽を繰り返し、あたかも憲法の抑制が効いているかのように安心感を与える詐術を弄しつつ、日米同盟の強化の一環として敵基地攻撃能力の保有や防衛費増額に踏み出した点に、政策の連続性や安定性があるものと多くの人が騙されていることがあろう。
むろん、ロシアのウクライナ侵攻や中国の台頭、北朝鮮の核・ミサイル開発などを受けて、憲法を守って国が守れるのか、国を守るためには日米同盟を強化するほかないのではないか、というようなムードが、政府やメディアによってむやみに煽られていることも影響しているだろう。
しかし、憲法を守って国が守れるのか、と言うならば、憲法を守らずに国を守れるのか、憲法を守らないで守る「国」とはいったい何なのか、が問われなければならない。さらには主権国家が自国の憲法の制約を自ら無視して、遠く離れた圧倒的な軍事超大国との軍事同盟の一体化を際限なく進めることで、本当に国民を守れるのか。日本の安全保障政策が守るべきは、日本国民の生命、自由および幸福追求の権利であり、日米同盟でもなければ、アメリカの東アジアにおける覇権でも権益でもない。アメリカが自国の権益を守る安全保障政策の手段のひとつとして日米同盟を選んでいるように、日本もまた日本国民の生命、自由および幸福追求の権利を守ることをその安全保障政策の目的として最優先するのが当然であり、日米同盟一辺倒の自衛隊へと変質させるのはそもそも本末転倒であるだけでなく、喧伝される「抑止」の強化にさえ繋がらないことを直視せねばならない。
軍事超大国であるアメリカは、自国の国民や領域を守るためではなく、他国を戦場に自国の権益を守るために戦争をする国である。他方、日本が戦争をするとしたら、憲法の制約上、それは本来自国の国民や領域を守る時だけに限られている。しかし集団的自衛権の行使を容認してしまったことで、日本は今やアメリカが他国で行う戦争に巻き込まれるリスクを抱えている。アメリカはこれまで同盟国を含めた他国を戦場に、たびたび戦争をしてきたが、長期の戦闘による悲惨な破壊と殺戮の拡大を経て、戦場となった国が分断国家になったり、あるいは最終的にはアメリカの撤退で戦争が終結したりした事例に事欠かない。当然のことだが、アメリカが同盟を結んだり、集団的自衛権を行使したりするのはアメリカの政治イデオロギーや経済的権益のためであって、同盟国の国民を守りぬく目的ではなく、このため、ひとたび戦場になった国の国民の犠牲は避けられない。
目下、喫緊の課題とされる米中対立の激化と「台湾有事」の可能性についても、こうした前提の上で、日本の安全保障政策の目的である日本国民の生命、自由および幸福追求権を守るために、いかにして戦争を回避し、台湾や日本が戦場にされないようにするかが問われている。その答えが、憲法をなきもののように無視して日米同盟のさらなる強化へと自衛隊を際限なく米軍と一体化させ、南西諸島の軍事化を進めていくことでないことは明らかである。
日米同盟の破棄や自衛隊の解散を求めているのではない。自衛隊のあり方と自衛権の範囲をふたたび憲法の統制を受けた個別的自衛権に限る「専守防衛」に戻し、日米安保条約とのバランスを回復させ、日米地位協定を改定し、米軍に今や自衛隊までも加わった沖縄の過剰な基地負担を減らし、身の丈にあったリアリスティックな外交・安全保障政策によって戦争を回避する活路を切り拓き、日本国民をすべて個人として尊重し、その生命、自由および幸福追求権を守ろうと言うのである。
憲法をないがしろにした軍事力の強化は抑止を高めず、日本の安全を保障できない
憲法に基づく専守防衛の原則はこれからも変わらないと強弁し、現実には無原則に例外を加えつづける政策改変の手法が繰り返されてきたため、日本国内、同盟国、そして相手国のいずれでも、いかなる状況で日本が戦争をするのかが明確にわからない状態に陥っている。この混乱の最たるものが集団的自衛権の行使要件の「存立危機事態」の認定条件であり、また相手国が攻撃に着手したと判断し先制攻撃に該当せずに敵基地攻撃能力を行使できるとの判断の根拠である。戦争を未然に防ぐ抑止効果を期待するのであれば、超えてはいけない一線であるレッドラインが相手国に認識されていないとならない。しかし緊迫した状況での日本政府の恣意的な(憲法や国会の統制を受けない)判断に依存するようでは、日本が戦争を行うレッドラインが何なのか誰にもわからず、それでは抑止は効きようがない。
自国と相手国との相互の軍事行動の予見可能性を高める外交努力もせず、レッドラインの共有による安心供与を伴わないような軍事力の強化だけでは、抑止は高まらない。それどころか、相手国が抑止強化を狙って軍備の増強を行っているのを受けて、日本もまた意思疎通を放棄し抑止強化を狙って、憲法上の制約も無視して無制限の軍備増強に乗り出すようでは、相手国との更なる軍備競争の悪循環に陥るのが必然となる。その結果、高まる一方の軍備競争の果てに相互不信から、避けられたはずの戦争が起きる可能性が増してしまう。かつてアジア太平洋の近隣諸国を侵略した日本が、ここまで国際社会で信頼を回復した最大の要因のひとつが憲法9条の戦争放棄である。明文改憲であろうと解釈改憲であろうと9条をないがしろにすることは、日本が中国や北朝鮮などに対して行ってきた最大の安心供与を毀損することにほかならず、日本が自ら再び戦争をする国になったとのメッセージを発することで、かえって日本の安全保障を危うくする。
戦後日本は憲法9条と13条の定めにより「国防国家」から「平和国家」への転換を成し遂げ、平和と繁栄を享受してきた。戦力の不保持という憲法の制約の下、国民の生命、自由および幸福追求権を守るための必要最小限の実力を超えるような戦争の準備は禁じられているからである。軍備競争や軍産学複合体に予算を注ぎ込むのではなく、国民の生命、自由および幸福追求の権利を国政上最も尊重するべく、国民の暮らし、医療、教育、福祉、公衆衛生に公共支出を充てることが憲法の求めるところである。現在日本が直面する少子高齢化、経済規模の縮小、社会保障支出の増大、財政赤字の累積などを考えれば、軍備競争を勝ち抜くことはおよそ不可能であるし、仮に勝ち抜くまでやるとしたら、その時には守るべき国民生活も国力も存在しない。このことを自覚できない安全保障政策は、およそリアリズムを欠いている。
軍事力の増強では抑止は効かず、戦争を未然に防げる可能性が高まらないことを認めるかのように、自公政権はまた「継戦能力」の向上や有事の国民生活の防衛や避難民の退避策を講じるそぶりを見せ始めたが、南西諸島はもちろんのこと日本全体のどこでも人口が限られた平野部に密集し、食糧もエネルギーも自給できない島国が、長期の戦争に多大な犠牲を払いながら勝利まで耐え抜くことなど不可能である。そもそも軍事力による実際の戦争が始まる前に相手国とは経済戦争が必ず始まるものであり、それが最大の経済パートナーである中国ならば、日本経済は戦争の開始とともに破滅へのカウントダウンを始めることになる。かつてアジア太平洋戦争においても、大陸の大国を相手に無謀な戦争を始め、負けが見えている戦争の遂行を目的に資源を求めてさらに戦線を拡大し、滅亡の袋小路に入り込んだことをよもや忘れてはならない。
憲法をないがしろにして日米同盟を強化することで、日本の安全は保障できない
日米安保条約は、日本を条約地域に設定し、日本に対する攻撃があった際に、日本が個別的自衛権、米国が集団的自衛権を発動し、日米の共同軍事行動によって日本を守る同盟協定であり、その限りにおいて日米を合わせた中国やロシア、北朝鮮に対する抑止の優位は明白であり、日本に対する攻撃が差し迫っていると考える理由はない。その証拠にこの間推し進められてきた日本の軍事力の強化は、自国を防衛する能力の強化というよりは、他国(米国)の戦争に参加する集団的自衛権の行使容認であり、米軍新基地の辺野古などでの建設であり、「台湾有事」での日米共同軍事行動を想定した敵基地攻撃能力の保有など、日米軍事同盟における日本の役割の変化であり一体化であり、その意味での強化である。防衛予算の大増額方針にしても、日本を守るための自衛隊のニーズに基づいたものではなく、従来日本の「盾」に対してアメリカが担ってきた「矛」の役割も担うようになったり、アメリカの軍産複合体が売りたいものを言い値で買わされている様相を呈したりしており、日本の安全保障の強化につながらない。
そういう意味では、この間の軍事力の強化は、中国や北朝鮮などに対する抑止強化を直接に意図したものと言うよりも、アメリカとの同盟関係で「置き去り」にされまいという意味合いが強い。しかし現実には、むしろ日本がアメリカの戦争に「巻き込まれる」可能性の方が高まっている。憲法9条が個別的自衛権までしか認めないために、従来は、アメリカの戦争に参戦する集団的自衛権の行使はできないと断れたものが、集団的自衛権の行使を容認したことによって、それにも関わらず戦争への参加を断れば日米同盟の危機に直結してしまいかねず、日本の安全保障政策の選択肢は危険なほどまでに狭められてしまった状態にある。しかも安倍元首相らのように政権与党関係者が自ら好んで「台湾有事は日本有事」などと無責任な軽口を叩けば、いよいよ米中超大国の覇権争いに巻き込まれる形で、日本国民は自ら志願したわけでもない戦禍に巻き込まれることになる。
ウクライナのロシアとの戦争でも明らかなように、アメリカは同じく核保有国であるロシアとの直接の戦争を行う気がないことを一貫して表明している。核戦争のリスクを考えれば当然の判断とも言える。とすれば、すでにシミュレーションなどでも示されているように「台湾有事」となった場合でも、人類を滅亡に追い込みかねない核戦争を避けるためにも米中は直接相互の領域を対象とした戦争を行うことを避け、台湾そして南西諸島など日本を戦場に限定した戦争を選択する可能性が高い。アメリカでさえ中国に直接ミサイルを撃ち込むことは前提としない姿勢をとることが予期される中で、日本がアメリカに代わって、アメリカのインテリジェンスに基づいて、敵基地攻撃能力を保有、行使することになることの愚かさは筆舌に尽くし難い。自らを戦場にすることはないアメリカが開始する戦争を日本が自らの領域を戦場にして戦うことが予期される同盟の「一体化」が日本の安全保障の向上につながるわけがない。
民主国家として憲法の制御下に自衛隊と日米同盟を戻すことで、日本の安全を保障する
米国に依存しその言いなりに、抑止効果も望めない軍事力の強化へと漂流する日本政府の姿勢は、常に「安全保障環境が厳しさを増している」という常套句によって正当化されているが、日本のそうした軍事強化路線が北東アジアにおける軍備競争を加速させ、安心供与を行う外交の道を閉ざし、かえって安全保障環境をいっそう悪化させていることを認識すべきである。日本は安全保障環境の悪化の一方的な被害者でもなければ傍観者でもなく、現状ではその加担者になってしまっている。そしてそのことによって自らの首を絞める愚をおかしかねない。
軍備競争の激化と戦争リスクの増大を招く抑止一辺倒の安全保障政策は、日本の安全を保障するという本来の政策目標から逸脱し、政策としての実効性を欠いている。加えて、経済安全保障法や土地利用規制法、あるいは軍事研究の推進や日本学術会議人事への政府介入などのように、従来の防衛政策以外の他の広範な政策分野までもが「安全保障化」「軍事化」されていくことによって、国内政治において、野党や異論が国家を危険に晒すものと封じ込められ、立憲民主主義のチェック機能が失われつつある。癒着した政官業メディアによる何のアカウンタビリティもない支配体制が築かれ、採算が取れる見通しもない軍産学複合体の形成が推し進められている。また、こうした「有害な男らしさ」むき出しの軍事化を通じて、母性の強調など性別役割分業の固定と再強化が行われ、さらにそのことを隠蔽するために軍事化のシンボルとしての女性性の利用(右派女性政治家の象徴的登用や防衛省の「萌え絵」使用など)やフェミニストたちへの攻撃が繰り返される。
感染症や気候変動など地球規模での安全保障上の危機が身近に迫っている現実に目を背け、核大国同士の覇権争いで世界が軍事同盟の対決で真二つに割れてしまうことがないよう、唯一の戦争被爆国であり、アジア太平洋戦争の反省を踏まえて「平和国家」として戦後再スタートした日本が果たせる役割、行える国際協調外交がある。それこそが、日本が北東アジアでの戦争を回避するためのリアルな生存戦略である。立憲主義、民主主義に則った国家として、日本が、日米同盟と自衛隊を憲法によって制御する安全保障政策の自己決定力を回復することこそが、日本の安全保障を強化し、個人として尊重される日本国民の生命、自由および幸福追求の権利を守り、戦争を未然に防ぐ相互のレッドラインの認識を可能にし、ひいてはアジアにおける平和と繁栄に資する。
2023年5月 安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合